| 沖縄での戦争体験記 |
| 2006/07/23 日曜日 22:16:46 JST | |
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昭和20年に、沖縄県石垣市で、三浦の叔母である黒澤淳子さんが体験した戦争手記です。 「有事法制」の立法化を行おうとしている「有事」とは戦争のことです。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ■ 今あかす、衝撃的な戦争体験記 ■ 昭和20年5月から6月の石垣町では、連日のように米軍の空襲があり、焼夷弾や爆弾と艦砲攻撃で民家が焼け崩れ、次から次と機銃掃射の追い打ち等で、多くの大切な肉親、親戚、友人を失いました。 - 強制疎開 カ-ラ山 -
山間の小さい川沿いに山を登り、着いた所は背丈ほどもある雑草と大きい樹木の生えている山でした。その山の中腹に、雑草や木を切り払い避難小屋を立てるのです。 私の父は新聞記者として南方に派遣されていて、家族は祖母、母、妹、弟、と私の5人でした。 しかし、空襲管制下にあり昼も夜も外出は自由ではありませんでした。日中は頻繁と空襲があり外出が難しく、空襲間隔の大きい夜間に山から下りて、食料品の買出しをしました。 6月の梅雨に入ってからの山間の道は、川に沿っているだけにつるつる滑るし、増水した水で獣道と川が一つになっているので荷物を背負っている母は、歩きにくそうでした。 食料品は離島から運んできたようでした。離島から船が入るとの連絡があると、母は夜に入ってから幾らかでも荷物を背負える私を連れて食料品の買出しに避難小屋のある山から下りました。 山を下る途中、何回も空襲にあい石垣の方が焼夷弾の閃光で明るくなったり爆弾の炸裂音を聞くと、山を降りるのが怖くなった事を覚えています。
「今は、淳子ちゃんとお母さんしかみんなの面倒をみてあげられないのだから頑張ろうね」 時折「ごめんね…」と言いながら涙ぐんでた母を見ました。 食料品を背負っての帰りは、時々もぞもぞとふところから小さい黒砂糖の固まり、時には氷砂糖を出して、「疲れが取れるよ」と、小さい妹や弟にもあげなさい甘いもので、慰められました。 避難小屋へ重い足での帰りには、何時も何回か照明弾に照らされました。 幾らか母に元気つけようと、照明弾を見ながら「明るくて きれいな 花火みたい」と言いましたが、不安が二人の回りを真昼のように明るく照らしているだけで、会話は続けられませんでした。 避難小屋での生活でも米軍の空襲、また沖縄本島に上陸したという噂、などからの不安、近くの強制疎開地でマラリアが発生したと言う恐怖が重なり、更にカ-ラ山もマラリア汚染地域と知らされました。
数ヶ月前から軍は台湾疎開を推進していたそうですが、ここで更に強硬に進め、かつ台湾疎開最終船という事で台湾まで護衛兵を乗船させて安全を図るという話しでした。 私の家でも台湾疎開最終船について話し合いがありました。 じっとして死を待つよりも積極的に生きる為の努力をしょうと、一家五人で台湾に疎開することになりました。
だんじゅかりゆしゃ いらでさしみせる 6月30日の夜9時近くに石垣港第二桟橋から、船出の歌に送られ出港しました。桟橋で送る方も送られる船上も、涙でした。 この疎開輸送船団は、敵潜水艦が八重山諸島周辺に出没して船をねらっているらしいとの情報から、慎重にコ―スをとり、7月1日は西表島の船浮港で一泊して情勢の見通しをつけたうえで、台湾をめざして翌日出港しました。 7月2日夜、西表島の船浮港を出港して、一気にキ-ルン(基降)に向けてひたすら船ははしりました。 敵機に見つからず、敵潜水艦にも会わずキ-ルン港(基隆港)につきますようにと私達は灯火管制下で暗くて暑くて寝苦しい船室に篭り、ひたすら祈っていました。 反面もう船は台湾に向かって走っているのだから大丈夫だろうと思う気持ちもありました。
午後2時ごろ突然、飛行機の爆音とダダダダダと機関銃の掃射する音が聞こえ、上の甲板を叩くような音、物を叩きつけるようなドサッ、ドサッと音がして、"空襲だ"と叫ぶのと悲鳴が聞こえました。 甲板に上がるとタラップから何人もの叔父さん叔母さんたちが、転がり落ちてきて重なり血がながれていました。 (話をしていますと長いのですが、これは一瞬のうちに起ったのです。) 一番遭遇したくなかった事が目の前で現実化しているので、私はすくんでしまい、泣いてしがみついている妹と弟を宥めている母をみました。 この襲撃では、私達一家は全員我慢はしませんでしたが、乗っていた「一心丸」は炎を上げて燃えていました。
母は弟の「英夫」と私を助けようと一生懸命でしたが、火の回りが早くて私達は炎の中に立っているようでした。 母は4才の弟「英夫」の身体を帯で結び、同じように投げ上げようとしましたが、急にその帯でしっかりとおんぶしてしまいました。 二人は、既に海に飛び込んでいました。祖母は、気を失っているのか波の上に仰向けに浮いていました。 無理もないかもしれません。船はどんどん燃えさかっていて、助かる為に我先にと海に飛び込んでいるところです。 母は、燃えさかる柳行李の上にたって「淳子ちゃん、美江子ちゃん」と、大声で叫びました。 私の顔を見て甲板の上の状況を悟ったのか、それから口を真一文字に結び、涙を流しながら両手を合わせて、じっと私を見上げました。 母の背にいる弟も泣き叫びもしないで目をパッチリ開けやさしい表情で見上げていました。 火が二人を避けているような、炎の中でそこだけが静かな平和な感じさえしました。 私は、思わず二人に手を合わせて涙を流しました。母も一言もいわず、お互いに手を合わせて、見つめ合い、ただ涙しました。
(2004-5-13) |


