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沖縄での戦争体験記
2006/07/23 日曜日 22:16:46 JST

 昭和20年に、沖縄県石垣市で、三浦の叔母である黒澤淳子さんが体験した戦争手記です。
 有事立法が今国会に狙われているなか、戦争の悲惨さを強く訴えたいと思い、手記にしました。

 「有事法制」の立法化を行おうとしている「有事」とは戦争のことです。
 私たちの子供を「人殺し」に荷担を強要する法律ではないでしょうか。なんとしても戦争国家への道作りには反対しなければなりません。
 人命や人権を第一に考えた国際社会の実現を、「暴力」や「報復」ではなく「話し合いによる解決」で求めます。


- 昭和20年6月30日夜8時、軍の命令で台湾疎開 -
 昭和20年6月30日、軍の命令により石垣島島民・約180名の人々が、2隻の小型船で台湾へ疎開。
沖縄本島では沖縄軍は6月23日に降伏しているにもかかわらず、八重山(現在の沖縄県石垣市)に駐屯していた日本軍は、6月30日夜9時近く石垣港第2桟橋から出港。
 7月3日尖閣列島周辺で、米軍に攻撃を受け、多くの民間人の犠牲者を出した。

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■ 今あかす、衝撃的な戦争体験記 ■
沖縄県石垣市出身 黒澤淳子

 昭和20年5月から6月の石垣町では、連日のように米軍の空襲があり、焼夷弾や爆弾と艦砲攻撃で民家が焼け崩れ、次から次と機銃掃射の追い打ち等で、多くの大切な肉親、親戚、友人を失いました。

- 強制疎開 カ-ラ山 -


 当時、軍(旅団)の命令で私達は、石垣町から5Km程の所にある川良(カ-ラ)山に強制疎開させられました。石垣地域の住民はほとんどカ-ラ山を疎開地に割り当てられました。

 山間の小さい川沿いに山を登り、着いた所は背丈ほどもある雑草と大きい樹木の生えている山でした。その山の中腹に、雑草や木を切り払い避難小屋を立てるのです。

 私の父は新聞記者として南方に派遣されていて、家族は祖母、母、妹、弟、と私の5人でした。
自分達だけで避難小屋を建てるのは無理でしたので、費用を払って慶世村の叔父さんに小屋を建てて貰いました。

避難小屋にはリュックサックに詰めて運べる程度の身の回り品しか持っていけなかったので不足なものを取りに行ったり、食料を買いに行ったりしました。

 しかし、空襲管制下にあり昼も夜も外出は自由ではありませんでした。日中は頻繁と空襲があり外出が難しく、空襲間隔の大きい夜間に山から下りて、食料品の買出しをしました。

 6月の梅雨に入ってからの山間の道は、川に沿っているだけにつるつる滑るし、増水した水で獣道と川が一つになっているので荷物を背負っている母は、歩きにくそうでした。

 食料品は離島から運んできたようでした。離島から船が入るとの連絡があると、母は夜に入ってから幾らかでも荷物を背負える私を連れて食料品の買出しに避難小屋のある山から下りました。
 夜中過ぎ頃、護岸の上に並べられている食料品を買ったり、又、知り合いの家で買ったりしました。
避難小屋に戻るのはいつも明け方近くでした。

 山を下る途中、何回も空襲にあい石垣の方が焼夷弾の閃光で明るくなったり爆弾の炸裂音を聞くと、山を降りるのが怖くなった事を覚えています。
 照明弾に照らされた事は度々で、母は『照らされている間はじっとしているのよ』と教えてくれました。
 照明の下でじっとしていると、息が詰まりそうで、そのまま一人で置いてきぼりになりそうな不安で一杯でした。ですから、照明弾と感じると、飛んでいって母のそばにしゃがみこみました。


- 母の愛 -
 夜の山道を歩きながら母は「夜中に山道を歩かせたり、惨めな思いをさせてごめんね」と、言いながらいろいろ話してくれました。

「今は、淳子ちゃんとお母さんしかみんなの面倒をみてあげられないのだから頑張ろうね」 
「淳子ちゃんがお手伝いしてくれるので、とっても嬉しいよ」

時折「ごめんね…」と言いながら涙ぐんでた母を見ました。

 食料品を背負っての帰りは、時々もぞもぞとふところから小さい黒砂糖の固まり、時には氷砂糖を出して、「疲れが取れるよ」と、小さい妹や弟にもあげなさい甘いもので、慰められました。

 避難小屋へ重い足での帰りには、何時も何回か照明弾に照らされました。
照らされている間は、見つかって攻撃されるのではないかと恐怖で体が凍ったようになりました。

 幾らか母に元気つけようと、照明弾を見ながら「明るくて きれいな 花火みたい」と言いましたが、不安が二人の回りを真昼のように明るく照らしているだけで、会話は続けられませんでした。

 避難小屋での生活でも米軍の空襲、また沖縄本島に上陸したという噂、などからの不安、近くの強制疎開地でマラリアが発生したと言う恐怖が重なり、更にカ-ラ山もマラリア汚染地域と知らされました。


- 台湾への疎開命令 -
 そんな時に再度、軍から"石垣も戦場になる可能性が高いので台湾に疎開せよ" 台湾疎開命令が出されたそうです。

 数ヶ月前から軍は台湾疎開を推進していたそうですが、ここで更に強硬に進め、かつ台湾疎開最終船という事で台湾まで護衛兵を乗船させて安全を図るという話しでした。

 私の家でも台湾疎開最終船について話し合いがありました。
食料も極度に不足になり、敵兵も石垣に上陸してくるのも時間の問題になりつつあり、台湾に着くまでの海上も敵軍の襲撃で危ないが、山の避難小屋に残ってもマラリアに冒され、又敵兵に攻撃される恐怖もある。

 じっとして死を待つよりも積極的に生きる為の努力をしょうと、一家五人で台湾に疎開することになりました。


- 台湾疎開船 -


 昭和20年6月30日の夜8時ごろ、軍の命令で石垣島の約180名の人々が、台湾疎開船「一心丸」と「友福丸」の2隻に分乗しました。

  だんじゅかりゆしゃ いらでさしみせる
   船(ふに)ぬ網(あな)取りば 風(かじ)やまとむ
  はりよ船よ ゆうはいせ なんちゅ ゆはいせ
     ささ ゆうはいせ
 私達一家は、「一心丸」に乗船しました。2隻ともそれぞれ35トン位の小型船で、民間から徴用された輸送船でした。
乗客は老幼婦女子の疎開者だけでした。

 6月30日の夜9時近くに石垣港第二桟橋から、船出の歌に送られ出港しました。桟橋で送る方も送られる船上も、涙でした。
後から聞きましたが、同時に軍関係者専用船が一隻同行出港し、3隻で船団を組みました。

 この疎開輸送船団は、敵潜水艦が八重山諸島周辺に出没して船をねらっているらしいとの情報から、慎重にコ―スをとり、7月1日は西表島の船浮港で一泊して情勢の見通しをつけたうえで、台湾をめざして翌日出港しました。

 7月2日夜、西表島の船浮港を出港して、一気にキ-ルン(基降)に向けてひたすら船ははしりました。

 敵機に見つからず、敵潜水艦にも会わずキ-ルン港(基隆港)につきますようにと私達は灯火管制下で暗くて暑くて寝苦しい船室に篭り、ひたすら祈っていました。

 反面もう船は台湾に向かって走っているのだから大丈夫だろうと思う気持ちもありました。


- 敵機の襲撃 -
 翌7月3日は朝から夏の太陽がギラギラ照って、風もなく波は穏やかでした。蒸し暑い船室で早く台湾に着くことを祈っていました。

 午後2時ごろ突然、飛行機の爆音とダダダダダと機関銃の掃射する音が聞こえ、上の甲板を叩くような音、物を叩きつけるようなドサッ、ドサッと音がして、"空襲だ"と叫ぶのと悲鳴が聞こえました。

 甲板に上がるとタラップから何人もの叔父さん叔母さんたちが、転がり落ちてきて重なり血がながれていました。
同じ船室にいた人達も機関銃のたまに当たって血の中でうめいていました。船室はもう燃え始めていました。

(話をしていますと長いのですが、これは一瞬のうちに起ったのです。)

 一番遭遇したくなかった事が目の前で現実化しているので、私はすくんでしまい、泣いてしがみついている妹と弟を宥めている母をみました。
敵機は繰り返し繰り返し攻撃してきました。

 この襲撃では、私達一家は全員我慢はしませんでしたが、乗っていた「一心丸」は炎を上げて燃えていました。
火は船室の天井まで炎をあげ、甲板に登るステップにも燃え移っていました。


 祖母は、6才の妹(美江子)を小わきに抱いて「皆助かるんですよ、ついていらっしゃい」と、燃えているステップを甲板の上へと上がっていきました。
でも、祖母が上がり切るのを待っていたかのようにステップは燃え落ちてしまいました。
天井には甲板にでるハッチの穴が開いているだけでした。

 母は弟の「英夫」と私を助けようと一生懸命でしたが、火の回りが早くて私達は炎の中に立っているようでした。
船室から脱出するには、天井に開いているハッチの穴しかありません。はしごもなく、高くてとても届きません。
すると、母はハッチの下に火がついて燃えている柳行李を二つ重ねて、その上に立ち、私を甲板へのハッチの穴目掛けて放り上げました。

 母は4才の弟「英夫」の身体を帯で結び、同じように投げ上げようとしましたが、急にその帯でしっかりとおんぶしてしまいました。
私はハッチから離れ祖母と妹を探しに走りました。

 二人は、既に海に飛び込んでいました。祖母は、気を失っているのか波の上に仰向けに浮いていました。
妹はびっくりしたような顔で私を見上げ、アップアップしていました。
 「今、お姉ちゃまが行くから頑張って」と、叫んでから、ハッチの中にいる母と弟を助けて、と周りの大人の人達にすがって歩きましたが、誰も取り合ってくれませんでした。

 無理もないかもしれません。船はどんどん燃えさかっていて、助かる為に我先にと海に飛び込んでいるところです。
仕方なく、私はハッチの所に戻り、上から「お母ちゃま、お母ちゃま」と呼びながら船室を見下ろしました。

 母は、燃えさかる柳行李の上にたって「淳子ちゃん、美江子ちゃん」と、大声で叫びました。

 私の顔を見て甲板の上の状況を悟ったのか、それから口を真一文字に結び、涙を流しながら両手を合わせて、じっと私を見上げました。

 母の背にいる弟も泣き叫びもしないで目をパッチリ開けやさしい表情で見上げていました。

 火が二人を避けているような、炎の中でそこだけが静かな平和な感じさえしました。

 私は、思わず二人に手を合わせて涙を流しました。母も一言もいわず、お互いに手を合わせて、見つめ合い、ただ涙しました。


 それは、ほんの一瞬だったかも知れませんが、私には、長い時間だったように思え、56年過ぎた今でも、瞼の裏に鮮明に浮き出ます。

(2004-5-13)

 
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