|
■ 少年時代の思い出
──1945年、守口市でお生まれになったのですね。
三浦 生まれたのは大宮通の周辺で、当時はヒョウタン池という大きな池がありました。今の市民球場のところは京阪池という池でした。ハス池やら沼地・池が多かったですね。
子供のころは梅雨時分になると水びたしになって、道路も田んぼも池もわからない状況になっていました。高い建物もないころで、生駒山がよく見えました。古い田園風景が残っていましたね。
|
|
──お父様は沖縄の石垣島出身とお聞きしましたが。
三浦 父は戦前、大阪に出てきて中央郵便局に就職し、のちに兵役に就きました。母は大阪市内に住んでいたときに大阪空襲で戦災にあい、信貴山に疎開しました。その信貴山で父と母は出会い、結婚しました。父の除隊後、守口に引っ越してきたわけですね。
私の生まれた大宮通の周辺は営団住宅といって、戦災で焼き出された人を優先して住まわせる住宅がたくさんありました。 バスも通らない。街灯もない。道路は砂利道で舗装も行き届いていない。そんななかで不便さを解消するために父は地域の自治会で頑張り、のちに守口市会議員になりました。所属は旧社会党で、4期つとめて、市議会の副議長を最後につとめて勇退しました。父も私も初当選は56歳で、だいたい同じ年齢のときですね。父が初当選したとき、私は27歳でした。
|

|
■ 沖縄の問題に取り組んだ青年時代
三浦 父が議員になる以前から、私個人も沖縄のおかれている立場を改善したいと思い、基地問題などに取り組んでいました。まだ沖縄がアメリカの管理下にあったころです。
県人会を通じて、沖縄の日本への復帰を求める署名集めなど、地道な活動をしていました。地域の人に沖縄を理解してもらうべく、沖縄の映画「月桃の花(げっとうのはな)」上映会をしたり、沖縄の民俗芸能を守口の市民会館で開催したりしました。
当時、父の出身地の石垣島では、大阪と行き来する飛行機の直行便がありませんでした。そこで石垣~大阪を結ぶ直行便をつくる運動をしました。白保の海に新空港を建設する計画への反対署名運動もしていました。
|
|

沖縄県の石垣島
|

|
|